拓海広志「吉本隆明初期3部作」

『言語にとって美とはなにか』
 学生時代に熊野の本宮から小雲取、大雲取を越えて那智へ抜ける道、つまり中辺路を初めて歩いた時のことです。鬱蒼と続く杉林をひたすら歩いて峠を越えると、いきなり眼前に真っ青な太平洋が広がっていました。それを見た僕はもの凄い開放感と感動をおぼえ、思わず唸り声を上げたのです。その時、僕は熊野信仰の原点を体感したような気がしました。
 本書の中で吉本隆明氏は、初源の言葉というのは神と交流するための言魂的な呪言であった書いています。そして、「原始人が奥深い山の中を彷徨い続けたあげくに海にたどり着いた時に、感動のあまり発した「うっ!」という唸り声が「海」という語の語源であった可能性を捨てさることはできない」という趣旨のことを書いています。
 勿論、吉本氏は言語を構造や記号として捉えることを否定しているわけではありませんが、同時にそれだけでは言語の本質には届かないとも考えています。この「うっ!」=「海の語源」という話は、言語を構造や記号としてのみとらえようとすることに対する警鐘として捉えるべきなのでしょう。
 何故か僕の中では、大雲取越えの際に山の上から熊野灘を見たときに受けた感慨と上述の吉本氏の言葉がふと重なってくるのです。


共同幻想論
 本書と『言語にとって美とはなにか』、『心的現象論序説』は吉本隆明氏の初期3部作と呼ばれています。それらに書かれていることの中から、僕が重要だと思う部分を幾つか抜粋してみます。
「生命体はそれが高等であれ、原生的であれ、ただ生命体であるという理由によって、自然に対して何らかの異和をなすが(原生的疎外)、人間は何らかの作為を持って自然と関わるようになった時に、自然との対立や自然への異和感を意識せざるをえなくなった」
「人間は、芽生えてきた自意識によって、自然としての自己の生理的な身体にも異和感を持たざるをえなくなった。心は身体という外界とは時間性によって、また現実的な環界とは空間性によってつながっているが、その度合があるレベルを超えていった時に、精神的な「異常」や「病」と呼ばれる現象が出現する」
「自然や自分自身に対する原始人たちの対立感は、自然としての自分自身(生理的・身体的)に対する宗教的崇拝の源泉となったと同時に、自分以外の人間に対する<関係>を生じさせ、初期の血縁集団、やがて部族的な社会を形成する要因ともなった」
「自然を対象と見なした時に、自己表出として発せられた初源の言葉は、やがて「詩」と「法」の言葉に分化していった。初源の言葉は、より<喩>の抽象度が高く、<喩>がわかるということは神の言葉がわかるということでもあった。従い、初期の法の言葉は、同時にきわめて詩的でもある」
「個体としての人間は他者との関係性が錯綜する中でしか個体としても存在しえない。関係性の中で最も基本的なものは<性>的な関係だが、人間は<性>的な関係をも幻想性によって成立させてきた(対幻想)。そして、そこに家族の起源がある」
「個々人の抱く個人幻想の集合和として共同の幻想が出来上がっていくが、出来上がった共同幻想は必ず個人幻想とは逆立する(注:吉本氏の使う「共同幻想」という術語の意味は、「個人幻想」の集合和である部分を捨て去った後もなお残るもののこと)」
 この三部作は同じものを違った切り口から見たもので、併せて読むとわかりやすくなります。


『心的現象論序説』
 人間の自意識、人間特有の幻想性に基づくその共同体(社会)の原型、そして初源の言葉とも言える「言霊」を宿した呪言の三つは、ほぼ同時期に生まれたものではないでしょうか?
 かつて吉本隆明氏は、そこを起点として他の動物とは異なる道を歩み始めた人間の心や身体、言語、性、死、タブー、宗教、祭儀、芸術、法、社会、国家などについて、本書と『言語にとって美とはなにか』、『共同幻想論』という3部作にまとめあげました。
 自らも自然の一部であり、身体的には自然のリズムと同調しながらも、自然と対立的に(自然を対象物と捉えて)生きざるをえなくなった生物が人間ですが、それ故に人間は自然や他の人間、生物、モノと、何らかの意識的もしくは無意識的な<関係>を持って生きていかざるをえなくなりました。
 こうした人間の宿命について「人間は本能が壊れた生物であり、その代償として文化を生み出した」と語ったのは岸田秀氏ですが、吉本氏や岸田氏の考えに拠ると、「文化」はその発生の時点から「自然」と「人間」の対立の矛盾を背負ってきたということになるのかも知れません。


 ※関連記事
 拓海広志『信天翁ノート(1)』


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