拓海広志「『海の翼』に寄せて」

 和歌山県の串本沖に浮かぶ紀伊大島は、僕がセーリングやダイビング、カヤッキングなどをするために、これまでに何度も訪ねたことのある島だ。太平洋の荒波に洗われる島の南側には断崖絶壁が切り立っており、天候の穏やかな時でも島へのアプローチは容易ではない。


 そんな大島沖で世界の海難史に残る大きな沈没事故が起こったのは、1890年(明治23年)のことだ。事故を起こしたのは、日本への親善航海から帰路についたばかりのオスマン帝国(現トルコ共和国)の軍艦「エルトゥールル」である。


 この海難事故に際して、当時の大島島民が行った献身的な救援作業と、日本中に拡がった遭難者への義援募金運動、また「金剛」「比叡」という2隻の軍艦を仕立てて救出されたトルコ兵たちを本国まで送り届けた連合海軍の行動は、当時のトルコの人々に深い感動を与えたという。


 日露戦争で日本がロシアを打ち破ったことから、トルコが親日的な国になったという話はよく耳にする。しかし、実はトルコ人親日感情は「エルトゥールル」の海難事故を契機として芽生えたものであり、トルコの人々はその話を代々語り継いできたと言う。そんな想いが思いがけぬ形で日本に返されたのは、イラン・イラク戦争真っ最中の1985年(昭和60年)のことである。


 同年3月17日に、イラクサダム・フセインは「3月19日の20時半以降にイラン上空を飛ぶ全ての国の航空機を無差別撃墜する」と宣言した。脱出までに残された時間は僅か48時間しかなく、当時イランに滞在していた外国人たちはパニックに陥った。


 欧米諸国はテヘランに緊急の臨時フライトを飛ばすなどして、自国民の脱出を粛々と進めた。しかし、当時の日本では社会党などが自衛隊の海外派遣に猛烈な反対をしており、このような非常時においても自衛隊機を飛ばすことができなかった。また、日本航空の経営陣は救援機を飛ばす決意をし、パイロットもフライトの準備に入っていたものの、信じがたいことに同社労働組合の激しい抵抗によってそれも実現しない。


 そんな困難な状況下において、トルコ共和国が日本人救出のための特別機をテヘランに飛ばしてくれた。同地には日本人を遥かに上回る数のトルコ人がいたと言うのに、彼らは自国民を陸路にてトルコまで脱出させ、特別機では日本人を救ってくれたのである。そして、この行動に対してトルコ政府は「ようやく『エルトゥールル』の恩返しをすることが出来た」というメッセージを発した。


 様々な権謀術数が渦巻く国際政治の世界だが、それでも国と国の関係において非常に大きな役割を果たすのは人々の想いであり、個々の人たちの信頼関係の積み重ねであることは歴史が証明している。熊野灘の島から始まった二国間の関係が、これからも良いものであり続けることを願ってやまない。本書を読み終えて、改めてそう思った。


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