拓海広志「『隠国』に寄せて」

 歌人であると同時にパステル画家でもある小黒世茂さんの歌は、鮮やかな色彩の表現に満ちています。そんな言葉の躍動に誘われるまま、僕たちは隠国・熊野へと分け入り、やがてその果てに広がる海原の彼方に補陀落をも幻視するのです。『隠国』は味わい深い歌ばかりの歌集ですが、僕が個人的に惹かれた歌を幾つか紹介させていただきます。


 海を喰ふ舟蟲男ひそませて枯木灘いま野ざらしの紺

 かなたには火の泉あり火をくみて漁者樵者と夜を吟じよ

 ふれ合ひてなほ遠きひとこの夜をへだてる星の意志やはらかし

 川霧は母のごとくに目に見える子も見えぬ子もふところに抱く

 経絡をはしる気のあり中辺路の天地無用に散る桃すもも

 羊歯森の時間のそとをかけぬける役小角は思考する風

 あざやかに死は生きてゐる龍宮に黒きゆふぐれ華やぐばかり

 石走る水の狂言 ひとはひとを怖れてひとを貶めよとぞ

 花婿は薄化粧する 睡蓮の絵よりこぼれ落ちたる六月

 悔恨を百合のかたちに問ひかけて百合のかたちのまま返される

 誰からも等距離にあるわたくしの中へと秋の破片が降りる

 読みさしの「戦国策」を胸に伏せ虚空へ馬上杯を注したり

 水底に燠火まさぐる夢のままヨセフもよその乳房は知らず

 うはずみの水の倦怠おもふとき阿古屋の珠は指よりこぼれ

 きのふ見し夢そのままに野分きて夏の末期をもりあがる波

 入江へと鯨魚おひこむ黒潮の地鳴りのさまを絵詞にみて


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隠国―歌集

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