拓海広志「子どもたちの生命と魂」

 自分の子どもを虐待する人は、かつて自分自身が親から虐待されて育った体験を持つケースが多いと言われています。僕は人の心の問題を全てそういう「物語」にはめ込んで安易に理解したつもりになるのは危険だと思いますが、人間の対人関係の基本が子どもの頃の親との関係の中で築かれることは間違いありませんので、自分が親からされたことをいつの間にか自分の子供にしてしまうということは起こりうるだろうとも思います。


 しかし、親からどのような育てられ方をしようとも、人には思春期から成人になる過程において自分なりの努力や周囲との関係の中で自己を確立していく時期があります。ですから、その時期にどのような関係が可能な社会、場所に身を置いているのかということも見逃せません。そこで、かつて受けた傷を癒しながら克服することが出来れば、「幼児虐待の世代間連鎖」という「物語」を断ち切ることは決して不可能ではないでしょう。


 ところが、昨今の日本社会は何らかの問題や異質性を持つ他者を大らかに受け入れ、その傷を癒しながら克服させるには、あまりに余裕や包容力がなさ過ぎるのかも知れません。人が心を蘇生させるためには身近な人たちとの関係が不可欠なのに、社会全体が余裕を失ってくるとそうした関係も希薄になりがちです。


 しかし、現代の僕たちが目指すべき社会は、「個」が「個」としてしっかり自立しながらも、いつも互いにさり気なく支えあっていける社会であり、同時にうまく自立ができない「個」や、弱っている「個」を支援するための社会的な仕組みや価値観の醸成も不可欠だと思います。


 そうした社会であれば、親から虐待を受けたことによって心に深い傷を持つ人であっても、周囲からの支援を受けながら親として自立していくことは可能でしょう。また、仮にそれがうまくいかなくても社会全体で子供を育てるという意識のある社会であれば、子どもの安全を守り抜くことだけは出来るはずです。


 幼児虐待致死事件の著しい急増ぶりは、大人たちの抱えるストレスのはけ口が一番弱いところへ向けられているものだけに、僕はやり切れなさを覚えます。これは大きくは日本社会の問題として考えていくべきですが、日々起こっている個々の問題についてはその親子の周囲が如何に彼らを支えられるか、またそれが難しい場合は被害者となっている子どもを如何に守るのかということを実践的に考える必要があります。


 そしてその際に一つだけ間違いなく言えること、つまり考え方のプリンシプルとしておかねばならないのは、親の親権と愛よりも子どもの生命と魂の方が大切だということでしょう。


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 拓海広志『やりきれない話』


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