拓海広志「『走ることについて語るときに僕の語ること』に寄せて」

 僕はこれまでに様々なジャンルの本を読んできたが、学生時代には「フリーク」と呼ばれても仕方がないくらい没頭し、「その作家の本ならば一通り読んだ」と言える作家が何人かいる。


 例えば、小学時代ならば手塚治虫赤塚不二夫水木しげる、トーべ・ヤンソンコナン・ドイル、アラン・ポー、江戸川乱歩(探偵小説のみ。エログロ小説はもっと後日(笑))など。中学時代は司馬遼太郎筒井康隆井上ひさしアーネスト・ヘミングウェイスコット・フィッツジェラルド白土三平など。高校時代はフランツ・カフカジークムント・フロイド、カール・グスタフユング夏目漱石谷崎潤一郎坂口安吾安部公房稲垣足穂つげ義春など。そして大学時代は吉本隆明中上健次村上春樹村上龍鶴見良行宮本常一梅原猛白洲正子渋澤龍彦ジョルジュ・バタイユ、ピーター・ファーディナンドドラッカーなど・・・。


 しかし、僕が学生時代にのめり込んだ作家たちの中で、自分が社会人になって今日に至るまでの長きにわたり、「新刊が出ると、必ず買って来て読み耽るのは?」と考えると、どうやら村上春樹さんの本だけのようである。かつては中上健次さんも僕にとって同様の存在だったが、大変残念なことにもう亡くなってしまった。20年ほど前の村上さんと中上さんの小説に共通していたのは、ポストモダンの思想潮流の中で「物語の解体」といったことが声高に語られていた当時において、むしろ「物語」を紡ぐことにこだわり抜いていたことだろう。それは、「徹底的な相対化の後になお残る、真のこだわりへのアプローチ」であり、その物語は滅法面白いというのもお二人の共通点だ。


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 さて、本書はそんな村上さんが「長距離走」について書いたエッセイ集である。小説のときとは全く異なる文体だが、僕は村上さんのエッセイも好きだ。また、僕は村上さんほど本格的なランナーではないが、それでも海へ出る日以外はほぼ毎日野山や海岸、あるいは公園を走っているので、長距離ランナーの気持ちは多少理解できる。「少なくとも最後まで歩かなかった」という、ある種のストイックさを保ち続けている村上さんの生き方は僕にとって心地良く共感できるもので、本書を読んでいると僕ももっと長い距離を走りたくなってくる。きっと、その後に飲むビールは最高に美味い筈だし・・・。


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走ることについて語るときに僕の語ること (文春文庫)

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遠い太鼓 (講談社文庫)

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アンダーグラウンド (講談社文庫)

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意味がなければスイングはない (文春文庫)

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1973年のピンボール (講談社文庫)

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